小説の場合、1冊面白いのが見つかると、その作家の作品は手に入るものから順番に読んでいきます。
山崎豊子さん(以下敬称略)だと、不毛地帯から始まって、白い巨塔、華麗なる一族、二つの祖国、ぼんち、沈まぬ太陽、大地の子・・・どれもこれも傑作揃いで、全部読んでしまうと、また2回、3回と読んだりします。
司馬遼太郎、三浦綾子、北杜夫、大藪春彦、三島由紀夫・・・
みんな、「その作家ばっかり読み」の時期があり、小説家の作品数によって、数ヶ月から1年以上続きます。
作家をランダムに選んでいると「ハズレ」に当たる確率が高くなりますが、小説家を固定できれば選ぶ手間が完全に省けるので、とても「幸福な季節」になります。
小説以外だと、カテゴリで興味が湧いたものは「とばし読み」に切り替えて、週5冊程度のペースでどんどん読んでいきます。
「トレード関連」については1年半くらいこれが続きました。たまに良書に行きあたると、当然繰り返し読みます。
このブログで紹介してる本は、少なくとも3回は読んでいます。
カテゴリで一番長続きしたのは、宗教関連。
更にカテゴリを分割して、キリスト教関連ばっかりの期間があったかと思えば、インド仏教ばっかりの期間があったりで、全部繋げると5年くらいになるでしょうか。
宗教と現実生活の中間に位置するものとして「瞑想」というのも、面白いカテゴリです。
バグワン・シュリ・ラジニーシには、しばらくはまりました。
一般的日本人は「死」を、不吉なもの、嫌悪すべきもの、できるだけかかわりたくないものと感じ、実際殆ど考えようともしません。
しかし「瞑想」においては、国や時代を問わず「死」を直視してきました。
一般的日本人は「今」しか興味が無いのに対して、「瞑想」では前世、現世、来世の繰り返し(輪廻転生)の輪の中から「解脱」する事を究極の目標とするので、その繰り返しの中でも大きな節目となる次の「死」が大きなチャンスなんです。
無視するには勿体無さすぎるのです。
チベットの瞑想入門書には、自分の死をイメージでシミュレーションする方法が詳しく書かれていました。
自分が死んだ後、家族の悲しむ様子とか、自分の葬式とか、火葬場で焼かれて煙になっていくところなんかの各段階を、できるだけ具体的にイメージしていきます。
「瞑想」には、「無の境地」を求めるという事と並行して、「(死の)イメージトレーニング」も積極的に行います。(「死」を「無の境地を求める瞑想の総仕上げイベント」ととらえれば、両者に境界はありません。)
この記事を読んだだけだと、なんだか猟奇的な感じを持たれるかもしれませんが、精神世界では死を無視する態度こそ異常なのであり、このブログでそのギャップを埋めるつもりはありません。
立花隆の「臨死体験」などを読めば、ニュートラルな立場からとことん掘り下げているので、かなり「食わず嫌い」が緩和されるのではないかと思うのでお勧めです。
ただ「死」をイメージする瞑想などに比べれば、「損切り」をはじめトレードで起こる感情の起伏をイメージ・分析するのは比較的単純な作業であり、瞑想をかじった経験がこのブログ記事に多少なりとも繋がっているとしたら、ちょっと面白いですね。
(この記事を書くまで、まるで意識していませんでした。)
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