私は、学生達に英語を教える授業のなかで次のような話をする事がある。
英文を読むってどういうことだろう?
何の為に読むのか。それはわかるためだろう。「読む」=>「わかる」
じゃあこの「読む」から「わかる」までの間には、何があるのだろう?
「読む」が「わかる」になる必須の条件。
それは「感動」することだよ。
だから、もし感動していなければ、それは「わかった」のではなく、単に覚えているとか調べた単語を貼り付けただけに過ぎない。
感動が伴って初めて何かがわかったといえるんだ。じゃあ次に、わかってから訳すのだけど、英文を訳す目標は何だろう?
それは、他者の理解だよ。
君たち受験生でいえば採点官だ。
この採点官に理解してもらうために英文を訳す。「訳す」=>「理解」
今度は「訳す」ことから他者の「理解」に至る間。
そこにはいったい何があるんだろう?
それはさっき、自分が得た感動を伝えることなのだけど、それを一言でいうと何だろう?それは「愛」だよ。
どうしたら相手が理解できるかということを考えて訳す。
だから理解してもらうということは「愛」なんだ。書くという作業はすべて「感動」と「愛」にもとづいている。
日記もその読者である未来の自分への「愛」を込めて書かなければいけないと、私は思っている。
愛を込めるといってもそれは難しいことではない。
特別な文章力が必要なわけでもない。
未来の自分が「ここに書いてあってよかった」と思ってくれるようなことをていねいに、正直に書いていけばいいだけである。<< 「日記の魔力」P.116~P.119より >>
私は字が汚いというコンプレックスが強く、殆ど手書きで字を書きません。(左利きなのに親から「お行儀」関係(鉛筆とか箸とか)は右利きに直された事が理由であるともいえるし、単なる言い訳とも言える。世の中には足で書いても私より遥かに綺麗な字を書く人は一杯いるのだ。)
だからノートするとか日記を書くというのは、苦手を通り越して「やらない事」になってます。
パソコンには悪筆が出ないので、なんとか書いているという状態。
だけど「情報を整理してまとめ保存する」ということの必要は感じているので、その参考になりそうな本として買ったのがこの「日記の魔力」です。
しかし、この本は私が予想したような事務的な内容ではありませんでした。
ライフワークが「思想」と言い切る著者ならではの、深い内容が込められた本となっています。
私も、もしこのブログを書いていなければ、上記の部分にも特段の感心は持たなかった事と思います。
しかし、このブログに詳しい方には、思い当たるところがあるはずです。
そう、このブログのコンセプトは「初心者時代の自分の為に書く」から始まっているのです。
「未来の自分」とは逆ではあるものの、私自身も気付いていなかったものが見えてきたような、嬉しい発見の一冊でした。
日記の知られざる価値に興味が感じられる人には、特にお勧めです。
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